表現と時間軸
前回時間軸に関して言及しましたが、個人や組織の存在は秩序と時間軸、その相互解釈で成立しています。
秩序には法秩序、自然秩序、宗教道理秩序の三つの軸があります。
時間軸にも計軸、主観的時間軸、客観的時間軸があり、捉えるのは簡単ではありません。
解釈の方向性などもはや制御不可と言えます。
囚われず自由な発想を持って現実と向き合いたいものです。
写真の発明以降、絵画芸術表現は解釈の制御という方向へ向かうのですが、その片隅でスーパーリアリズムという考え方が出てきます。
模写を極めるという事なんですけど、絵というのは見たものを捉えるまでの思考過程が浮き彫りになるものなんですね。
モチーフは主に卵や水槽、ガラスなど光の屈折による対象の歪みなんですけど、どうしてこんな形になる、という理屈を捉えて描くのと、こうなってるからこうなんだ、という捉え方で描くのとでは全く伝わるものが違う。
写真と決定的に違うのは、その思考過程の表現なんだと思います。
写真はその瞬間の光を止めてしまうストップモーションの美で、スーパーリアリズムは緻密な思考過程の末見えるものに行き着くという過程を辿るという美。
時間軸が異なるということですね。
ちなみに今日は広島原爆の投下があった日です。多くの人が大変苦しんで亡くなりました。
その原爆を落としたアメリカも、数々のテロで多くの国民を失いました。
男性には戦って女性を得るというような本能がありますが、戦争というものはバッタの大群に近い、また別の、個々の本能的狂暴性を生むプログラム秩序に基づいているように思えます。
自然秩序がただおとなしく平和的に、全ての生物を平等に生かすものではなく、時に何とも思わず多くを殺すものであるのでしょう。
我々はそれを人格と捉えたり、神格と捉えたりして、なんとか受け入れてきたと思います。
その教えを失っていないし、何より我々を幸せにするものはただ解釈とか考え方であって、幸せがやってくるなんて考え方は法秩序から見ても自然秩序から見ても絶対的に間違っているのだけれど、それを道理にすることで安心する人がいて、それが組織管理として有効なこともあるんだけれど、それでも私は子供に面と向かって、幸せがやってくるなんて考え方はやめなさいと言いたい。
己の時間軸と解釈があれば、地獄も小事とできる。あとは大事を考え詰めたら、小事など5秒で忘れてしまうのだ。