はんだえもん’s blog

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表現において思想を隠す

思想というのは血に直結している。

民族を守る為のトーテムが表出してくる。

異なる民族のトーテムに攻撃的になるように仕組まれているのは、我々の遺伝子であって、意思ではない。

血が騒いでいるから、我々には活力が溢れている。

これを平定する術は無い。

あるのは内的な遺伝子の戦争の平定への道のみである。

活力の喪失は正解ではない。

集団的主体性というものが、何を目的として合致するかというところであろう。

個体と個体の遭遇から、血が騒ぐ。

相手を否定することで、血を肯定する。

相手を理解したところで、敗北の先に道があるとは思えない。

短期的な勝利で、利益を得る。

短期的な敗北を重ねて、より長期的な利益を目論む。

利益を提供して、異なる利益を要求する。

利益の提供に損害認識が伴う。

利益の提供に伴う損害認識を、限りなくゼロに近づけていく。それで等価交換は成る。

受胎告知と地球外生命

UFOとか地球外生命にやたら固執してるのはローマカトリックの人間だと仮定すると、キリスト=神という概念の定義を移行していように思える。

ユダヤ思想や龍神信仰から見ると生物の中で人間だけが自我を持ったという世界観はあくまで人間の宇宙観から感じた精神的なインスピレーションによって成立しているように思える。

動物をよく観察すればそれぞれ自我は持っていることに気付く。違うのは発音の種類と、手記能力のみであって、その強化によって体系的思考や記憶力を得たとすれば、人間はその他哺乳類と同じ動物であるということで全ての辻褄は合う。

長く敵対的情報封鎖の中にあった下層階級の人間は、ローマの法によって拘束されて今も生きている。

支配階級の目的としてはどうやって彼らを扶養し、働かせて、少ない報酬で満足させるかということに尽きる。

魔技としての宗教がそれを可能にする。

敵対する勢力を統一するには、大きな仮想敵を作るのがいちばん早い。

もちろん武器提供からの武装蜂起、戦争の手順ならもっと早いが、報復のリスクは避けられないので困っている。

報復の意思は、ローマが怯えている最大の弱点なのだ。

だから魔技として、記憶を改竄、消去する。

埒外の情報、予期しないこと、想定外のことを脳にねじ込むことで、古い記憶は消去される。

その手段として、「宇宙人」という概念は創出された。

重要なのは証明や事実ではなく、どうやって信じさせたかだろう。

聖母マリアは処女のまま、受胎告知を受け、出産した。

唯一神ヤハウェと、聖母マリアの奇跡、奇跡として生まれたキリスト。これを三位一体としてまた唯一神とする。

神を奪われた人々は想像する。リアルに宇宙人がマリア孕ませたんじゃね?

自分達を、アイデンティティーを冒涜し続ける構造。

頭の良い子供は、自身のルーツを調べる。執拗に、執拗に調べる。すると、この地獄の構造に気付く。

その瞬間だけが、自由。あとは迫害に敗北し記憶を失うか、迫害と戦い続ける日々が続くか。

地獄でも天国でもない現実の話。

STHR

 五十音表というものがある。AIUEOの母音が縦軸、横にKSTNHMYWが連なる発音を表す表である。

 これを見ると、日本語には50音しかないと思うだろうが、これ以外の発音も多数存在する。その多くが、HSTRに集中している。SとTS、THとT、Z、RとL。これは前置詞と語尾に、集中し、多くが神格を表している。

 鶴は訛るとつどに近くなったり、水が訛るとみどに近い発音になる。逆に頭が変化するとつるが樽になったりざるになったり猿になったり、水がいずになったり糸になったり井戸になったりする。

 これは生活環境の良し悪しで広角の上下や顎の筋肉が変わってくるからだと思われる。

にの秘密

はじめに

 これは日本語に関する考察である。

 言語というものは非常に歴史深く、地域による相違が甚だしい。あり得ない話だが、もし世界中の人間が同じ言語で話せたら、身分差も争いもいくらか和らいでいることだろう。

 争いの根元にはいつも言語のちょっとした相違が隠れている。お金と同じで、円と円なら正確な両替が可能だが、ドルと円の取引を正確に行うことは不可能である。 

 同じように、価値の本質的比重は「言葉」に傾いている。生活環境による価値認識の相違があり、その土地で最も価値のあるものが神格を有する。

 古代日本に於いて、それは三種の神器だった。それぞれの意味するものは蚕、たたら、翡翠である。

 これを取引して、古代日本は商業大国として多くを得た。主な取引先は、中国、インド、そしてイラン。

 陸路ががら空きだったのはシルクロードを中心に栄えた唐の時代まで。あとは海軍を引き連れて過酷な海のシルクロードを通って商品を運んだ。

 翡翠は河南を拠点に中国へ売り、日本は米や食料を買った。鉄や硫黄、金、銀も豊富にとれた。

 採掘は過酷を極めたであろう。金属の溶けた湧水は人にとって有害であり、それを囚人や敵国捕虜を使って掘り出し、その穴に彼らを監禁した。瓶が古くから伝わっていたとしたら、ペルシャの語源は瓶舎(ビヰシャ)に近いものである可能性が高い。ここからは仮説である。

 絹はイランの王族に高値で売れた。インドを経由して、アッシリアバビロニア、ローマの三つ巴(葦原中津国)で取り合う港町スーサ(日本側の港は須佐)と、織物職人の街サマルカンド(ユダ地区に嫁いだタマル家)。

 海の民(海幸彦)である和邇(倭人)。それを束ねる商人(ソグド人)と、それを狙う倭寇はきっと古代からいた。

彼らは国家として正式にぶつかりあったり、隠れて海賊したりした。

盃→宗像→月

 逆月→盃という仮説

 宗像三女神は誓の儀によって生まれ、隠された神格。

 月読は天照、スサノオと共に生まれ、隠された神格。

 ペルシャ北部にいたスキタイという民族は、盃を重要視してヘラクレスやポセイドンを祀った。

 髑髏盃もスキタイの風習。織田信長朝倉義景の頭蓋に金箔を貼って盃にした伝説がある。

 宗像は胸形とも書き、宗は「むね」とも読む。

 統一教会の後継者文(ムン)氏はアメリカで「MOON」氏を名乗っている。

 スキ→ツキという仮説。

 夜の営みを伽という。おそらく触るとかそういう語源であろう。

 女性を中心とした隠された勢力があって、左右合わせて月弓ということか…何て奥ゆかしい上品な表現なんだろう。

 =おっぱい族w

 これは大人にしかわからない。秀吉の正室おねは北大政所→慶長の役加藤清正満州で後の大清帝国皇帝となるアイシンギョロ氏に接触している。

 ここで人質の交換を行ったか、軍を預けたか…。

 そもそも中華の根拠って何だろう?

 豊臣秀吉の父木下氏は加茂氏庶流。八咫烏であった可能性が高い。出家して竹阿弥となった。竹といえば竹内宿禰→龍蛇信仰→ポセイドン→姫→比売→月読?

 竹を編むといえば篭目→六芒星ダビデユダヤ民族?

 この仮定でいくと、信長(忌部氏)はスキタイの末裔。秀吉(加茂氏)はペルシャの海人族。おねの存在を通して大陸の同族と密接に関わり、アイシンギョロ氏を成立させた。

 家康は松平氏→平家の末裔。平家といえば厳島神社ペルシャの海人族。

 何だろう?ルネサンス的な?シルクロードルネサンスだろう。どうしても明が邪魔だった。

 ソグド人→サルータ→猿田彦

 交易で食ってる人達。いっぱいいる。交易ジャマスルナ。ソンダケ。

 そこにフン族の末裔フォンナッサウ家。この辺にしときましょう。

 おやすみなさい。

交代氏族制度

 皇太子→交代氏という仮定。

 家長制度の一般認識では男性の優位がある。故に、男性側に女性が単身で嫁ぎ、その家族間においても主人側の家族に優位がある。

 これを二本柱の二次元論で考察すると、長子を産んだ母親がその孫の代において一番偉いとなる。

 故に、表立って天皇が最高位だとして、その子に誰が嫁ぐのかが後世最重要になってくる。

 かごめかごめに立ち戻ると、皇太子を囲んでいるのは「時勢」の権力者で、「後ろの正面」が立ち代わる。

 時勢の最高権力者が皇太子に嫁を出すことで、天皇の権威は半永久的に維持される。

 国家のさざれ石が意味するのは嫁として投入された時代時代の最高権力であり、それらの勢力が婚姻で結び付くことを意味している。それが何代にも渡って続いていく。

 「苔のむすまで」は、それでもその制度も永久ではないという果てしない未来にある終わりを予言する言葉であろう。

 果てしない未来、人類の歴史は終る。そこまでの八千代の子供らの為に、最善を尽くそうという人はどれくらいいるだろうか?

 わたしはまだ自分のことで精一杯です。

子取り

 夜明けの晩に、外で泣いている子がいれば。という話。

 かごめ、かごめというのは敵に囲まれた絶体絶命の情況の想定であると同時に、仲間に守られているという暗示でもある。

 古代から日本は天皇という祭祀王と将軍という統治王の二本柱が政治の中枢であり頂点だった。その象徴が鳥居であり狛犬なのだろう。

 祭祀王は政所(まんどころ)として血縁の管理から民族の融合と優劣を計り、統治王はその優劣を力ずくで試し、国境を夷(ヒナ)として引いた。

 領地で生じる利益が国を潤し、王はその領土を奪い合った。

 王の回りには護るもの、知恵を与えるもの、記録を取るものがそれぞれの勢力を伴って付随し、時に権威そのものをもぎ取った。

 王にとっては誰もが敵にも味方にもなり得る者たちだった。

 政治の世界では誰もが王であり、それぞれがそれぞれを取り囲んでいる。その世界を子供に分かりやすく感覚で伝えるものがかごめかごめだという与太話である。

 この「子取り」の歌を日本的二次元の考え方で考察する。

 取り囲んでいる者を敵、味方の二次元で仮定して見ていくと…

 かごの中の鳥は敵に囚われた捕虜としてのわたしと、味方に囲まれた王としてのわたし。

 いついつでやるは解放と、味方との再会。

 夜明の晩にというのはパラドクスのことで、単一次元の考え方を否定する言葉である。

 鶴と亀が滑ったは敵がわたしに動揺して足を滑らせることと、先祖が統べたよという話。われわれは政治をしているよと。

 後ろの正面だあれもパラドクスでありながら、後ろを味方とした時は正面が敵であり、敵が誰かを当てる、即ち情報の正確な把握能力を計っていて、後ろが敵だった場合、後ろの正面は味方である。つまり味方に攻撃しないというこれも状況把握能力を計っている。

 これは戦場を生き残る兵士への親からの「生き残れ」という熱いメッセージであり、過酷な家長制度の政治の中で強く生きる為のサバイバル実践論、または練習なのかもしれないな。そんな…

 そんな与太郎噺であります。ありました。

 おやすみなさい。