子取り
夜明けの晩に、外で泣いている子がいれば。という話。
かごめ、かごめというのは敵に囲まれた絶体絶命の情況の想定であると同時に、仲間に守られているという暗示でもある。
古代から日本は天皇という祭祀王と将軍という統治王の二本柱が政治の中枢であり頂点だった。その象徴が鳥居であり狛犬なのだろう。
祭祀王は政所(まんどころ)として血縁の管理から民族の融合と優劣を計り、統治王はその優劣を力ずくで試し、国境を夷(ヒナ)として引いた。
領地で生じる利益が国を潤し、王はその領土を奪い合った。
王の回りには護るもの、知恵を与えるもの、記録を取るものがそれぞれの勢力を伴って付随し、時に権威そのものをもぎ取った。
王にとっては誰もが敵にも味方にもなり得る者たちだった。
政治の世界では誰もが王であり、それぞれがそれぞれを取り囲んでいる。その世界を子供に分かりやすく感覚で伝えるものがかごめかごめだという与太話である。
この「子取り」の歌を日本的二次元の考え方で考察する。
取り囲んでいる者を敵、味方の二次元で仮定して見ていくと…
かごの中の鳥は敵に囚われた捕虜としてのわたしと、味方に囲まれた王としてのわたし。
いついつでやるは解放と、味方との再会。
夜明の晩にというのはパラドクスのことで、単一次元の考え方を否定する言葉である。
鶴と亀が滑ったは敵がわたしに動揺して足を滑らせることと、先祖が統べたよという話。われわれは政治をしているよと。
後ろの正面だあれもパラドクスでありながら、後ろを味方とした時は正面が敵であり、敵が誰かを当てる、即ち情報の正確な把握能力を計っていて、後ろが敵だった場合、後ろの正面は味方である。つまり味方に攻撃しないというこれも状況把握能力を計っている。
これは戦場を生き残る兵士への親からの「生き残れ」という熱いメッセージであり、過酷な家長制度の政治の中で強く生きる為のサバイバル実践論、または練習なのかもしれないな。そんな…
そんな与太郎噺であります。ありました。
おやすみなさい。