多次元の律にノる~ノリってなんですか~
すごく真面目な、真面目すぎる少女が、友達との会話にノれない。
純粋すぎる瞳で「ノリってなんですか?」
そう訊かれると、ノリってなんだろうと思いませんか?
世の中にはいろんな律があって、私はそれを次元とか軸と呼んで考えています。
音楽で言えば例えば太鼓の音が一定のリズムで鳴ってて、その音と音の中間に手拍子を入れる。太鼓を叩く人と、手拍子を打つ人。
原始的なコミュニケーションが発生して、楽しさが生まれる。所謂その状態がノリでしょう。
相手の表現、あるいは世の中のあらゆる事象に対して、その返事となる表現を繰り出すことがノリであり、これを一次元的に捉えてしまうとコミュニケーションの形骸化が起こりますね。
おはよう☀😃❗に対して「またか」と思うようになるわけです。
気分が下がります。
「おはよ」
それが村社会だと思います。世界を皆が同じ一次元的な解釈をすれば、そこに和が生まれるでしょう。集団の解釈を合わせる目的で行われる行為を儀式と呼びます。儀式を繰り返し集団が集まり、助け合い生きていく、という心理を生み出す。これが原始的な社会原理です。
現代になっても儀式と呼べる行為が随所に見られる。集団形成において我々は変わらないものを大切にしているということです。
助け合い、生きていく事自体自然で尊く、今後も大切にしていくべき我々の基本原理だと思います。
時々、今何が起こっているのか、何を求められているのかが見えなくて真っ暗になってしまう。
そこで生まれる表現はノリと対極の「不和」となります。
寝不足やストレスでこの「不和」な表現が発生してしまうと、全体の和が崩れ去ります。
この「不和」の正体はなんでしょう?
それは個人の中心にあるもの、主観的主観軸です。
思考の軸は、この主観的主観軸に引っ張られる性質があります。
そうならない為に、我々は「対話の準備」をします。人に話しかける、話しかけられる準備です。
それができれば、我々は難なくコミュニケーションがとれて、理想の集団を形成できます。
しかし残念なことに、恐らく人類の約半数は「対話の準備」をする習慣ができてません。単なる話しかけを、一次元から捉えて埒外の「攻撃」だと感じています。
同じノリの解釈を見ても、視点によって世界と対話する為のノリなのか、部外者を排除する為のノリなのか、客観的主観軸を捉えたいものですね。
最後に、集団がどれだけ大きくなっても、何らかの同じ情報を共有したとき、そこに主観的解釈の集合体としての軸が現れます。
私はそれを大局観的主観的と呼んで追い求めています。
時間は太陽の一定の動きに基づく物理的時間軸と、人の体感に基づいた主観的時間軸があります。物事の大きさや長さも物理的空間軸と人の主観的空間軸があります。
違いを理解して、見極められるようになりたいものですね。