切腹について
どうも小さい頃から、切腹という概念が腑に落ちなかったのを覚えている。
武士道という概念の中にあって潔さ、潔白を訴える手段だという。
首を獲られるか、切腹が「許される」かみたいな考え方は、徳川政権が作り出した統治上の精神論であって、それが現代において美徳となる訳がない。
幼い私は大いに混乱した。
切腹を最初にやったのは平家の武将で、自分のはらわたを敵将に投げつけたという。
戦において重要なのは数の問題で、基本原理人数で勝敗は決まる。つまり味方が味方であること。それが大事。
戦国時代、戦から逃げ出す者は数多くいた。かれらは上手く逃げられれば浮浪民になるか、別の軍勢に捕まっては売られて結局兵士になった。
逃げない兵士をどうやって作るか。
自分の武将が切腹する光景程、心に響くストーリーはない。もはや呪いといっていい。忠誠が深く刻まれる。
「許さぬ」と言って、残された軍勢は戦い続ける。
恐らくこれが、切腹を美徳とする精神論の本質だ。
秀吉に破れた柴田勝家も、焼かれる城の中ではらわたを投げつけた。
江戸時代になると、切腹は形式化された儀式となった。白装束を着て、短刀に手を伸ばしたところを介錯された。
「腹切ってないじゃん…」最近これを知った私は、大いに錯乱した。
あとになってよく考えたところ、やはり徳川は公家であって武士ではないという所に思い至った。
粗野な切腹の精神論が戦乱を招くと言って、解釈をねじ曲げた。結果、多くの武人は戦い中毒を止められた。
でもね、血が騒ぐのは止められない。
…例えば敵の妻を殺して、精神の弱りきった所をぶち殺すみたいな事を、支配者の世界はずっとやってるんですよ。
そこからみると、自分のはらわたを敵に投げつけることのなんと爽快なことよ、と思うのです。
そう思って、改めて切腹の意味と精神を理解できた気がしたのでした。