物言い
白んでゆく空を見上げ欠伸をしながら、城の見廻りをしていた。
門の前に、異物があった。
それは、死体であった。
はらわたが裂かれ、門に向かって引き出されていた。
エボシサマにすぐさま報告し、二人でその死体を近くの山へ運び、埋めた。
「百舌の早贄、という言葉がある。」
エボシサマは教えてくれた。
百舌は、気づかぬ間にカッコウに巣を占拠されると、子を殺されたことにも関わらずカッコウ子に餌を与える。カッコウの子は百舌の数倍大きくなり、気づいた百舌はその怨念をどうすることもできずトカゲなどを殺して木の枝に突き刺すのだという。
「わしは百舌というのは、その事に気づかぬというのではないと思う。早々に気づいておる。」
エボシサマはその概念に関する解釈を述べた。
「子を育てるのは脅されて仕方なくや。恐怖という本能に逆らえぬ。カッコウは百舌をいつでも殺せるからな。」
「この骸が贄であると…?」
私は聞いた。
「勝てぬ、と思う敵にはどう対処する?」
エボシサマに質問を返された。
「逃げるのみかと…。」
「わしらやカッコウは、人を逃がさぬ。逃げられぬ場合どうする?」
エボシサマが言う「わしら」とは、人という生き物全般を指しているように思った。支配者は、負けた者を逃がさぬからこそ支配者たりえる。その仕組みは、記録を見る限り数千年変わりない。
「戦って死ぬか、従うのみ…」
私ははっとした。
「贄とは、報復ですね。」
「報復か、あるいは物言いか…。」
私はエボシサマの「物言い」という言葉に深く考えさせられた。
主に勝敗にあたって決められたことに対し異議を唱えるのが物言いだが、ここに斬り結ぶと同等か、あるいはそれ以上の熱量を持った戦争がある。
殺す、盗む、犯す、叫ぶ…。そこに強固に決せられた善悪というものがあるからこそ、あえて悪を表出させることに意義が生じてくる。
「贄に心が揺らげば、わしらの負けや。動じなければ、わしらの勝ちでええやろ?」
エボシサマは敵の実態などは気にも止めず、そう結んだ。
門の回りの血を水で流し、古布で擦ったが落ちきらず、赤黒いあとが薄く残った。清めの儀式を終えると、穏やかな朝が一面に広がっていた。爽やかな気持ちの中、引き出しを開けて記録を残した。引き出しには一緒にロザリオと数珠が隣り合って収まっている。数珠を取り出すと、私は言行を唱えた。爽やかな気持ちはすぐに濁った。
私は正直、その贄の有り様に心が揺らいだ。切腹とは、集団による贄の創造であったのか…。名誉の自決という表面的な解釈を率直に受け入れてきた私にとっては、それは人生の指針をも大きく揺るがす事件であった。