はんだえもん’s blog

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 キリストのイメージっていうのを贄として考えると、じゃあその目的を縄張りの主張だとすれば、キリスト教圏を作り出しているのはユダヤ人「その選民」だということになる。

 贄が神の世界の住人になるという考え方は宗教の共通的な所だけど「ジャンヌダルク大国主イオマンテ等」、キリスト教がその一線を画す独自性を持っているとしたら、贄そのもののイメージ「死体」をすなわち神のイメージとしているところ。

 生前のキリストは預言者「神託を授かる役割」であって神ではない。それはギリシャの神託所とか日本の巫女の役割とそう変わらない。

 死んで神となったなら、神の世界の住人というイメージになるはず。

 敢えて死体の状態に後光をつけるといった偶像崇拝は、これはもう贄でしかない。

 百舌鳥がはやにえを行うのは秋で、これは食物が少なくなる冬に縄張りを守る目的で百舌鳥が百舌鳥に対して行う行為。

 キリスト教偶像崇拝を禁止したのはそれが贄「キリストの死体」に対抗する贄となり得るから。

 つまり九州で偶像崇拝「仏教」を破壊された時、それに対抗するには神父達を処刑して晒すこと「贄」が極めて有効な手段であったと考えられる。

 現代では贄を晒す事が禁止されている。というか忌み嫌われている。その中で、「謝罪会見」が処刑の場となり人々が恐怖を感じ一方的に縄張りを主張されている。

 これが民主主義の「生き贄」であり、その中にしか安心がない。贄と贄の闘い。それが見たい。

 またコロシアムに戻る。古代相撲も、本質はコロシアムと同じではないか。

 テロップでこの贄は誰々の勢力に於けるこのような立場のものである。というのを出して欲しい。

 民主主義における至高芸術は謝罪会見であり、提供は「贄を作ろうの会」でした。