はんだえもん’s blog

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哲学的に可愛いを考えると

 養老孟司さんが「親ガチャ」という概念に対して「子供の事を考えて産む親はいない」というようなことをおっしゃっていました。

 確かにそうだなと思って考えてくと、子供の可愛さというのは無意識の要求の形であって、それは造形と共に一種の遺伝的命令のようなものだと考えられる。

 虐待というものは子の要求に対する親の反逆であって、あくまで親を支配しているのは子であるという力関係が否定されることはないと思う。

 これは単一個体同士による主従関係というより、血の支配といったほうがしっくりくる。

 そう考えると子が親を支配しているとの実感から「親ガチャ」という概念が生じるのは至極自然な流れに解釈できる。

 親が誰であれ私を生かすように命令し実行させる。故により裕福な親を支配できれば、より良い人生を歩める。その権利、力を私は有する。

 といった「感覚」であろう。

 自然な流れとしては、何らかのきっかけで自分が自分の存在、その人生をガチャポン程度に考えていたことにきづく時が来る。

 親を支配できても社会を支配できない己の非力に気付き、努力してより良い人生を掴もうとするか、諦めて不貞腐れるかに分かれる。

 どんな激情を孕んでもそれは川の流れのように清らかで、海のように深い「血の要求」である。

 

賊と侠

 支配者にとって戦争とは、軍勢を削がれる事である。

 軍勢とは何か。解釈を強制するものである。

 敵将を討ち取るまでが戦争。敵軍を味方として扱うには、多くの段階を成功させなければならない。

 戸惑いや不満、殺意を抱えつつ応無しに従うものは軍勢未満である。

 これが賊である。

 支配者はこの賊の排除を、戦争の第1陣に於いて成す。敵軍による虐殺の中で、あるいは遁走させる。

 家長制度の本意は戦争にあり、目的は解釈の強制である。

 尊厳とは、解釈の自由の中にある。

 解釈の強制は、尊厳の蹂躙に等しい。

 故に、虐殺や追放無しに全員に平等に強く解釈の強制を行えば、つまり尊厳の蹂躙を行えば、死傷者なしで国家を統一できる。

 尊厳が不可視領域であるがゆえに、これは論として成立する。

 現実はどうか?

 家長制度における解釈の強制を、それが目的だと理解しているひとはどれくらいいる?

 それが国家解釈と離反した場合、賊として扱われる。

 故に、家長制度は実質的に目的を失ったと若い人は皆思ってる。

 矛盾するように、家長制度は未だその意味を失っていない。

 賤民の可視損害より、貴族の不可視損害の方が大きい、またはその苦しみはあるいは、平等である事に気付けば、価値の本質的な等価交換が可能なはずなんだけど、多分多くの人は永遠にこれを理解できない。

 それは解釈の強制を旨としながら、それが目的だということに気づかれないように、という圧力によって己の目的を見失っているように錯覚させられているからである。

 私の言っていることは侠であって賊ではない。利益の方向性に理がなければ、それに携わる全ての人が賊になる。国家組織という全体を害する。

 隠しても隠しても、それは露呈して、証明される。

 品格というものはそこにある。血筋はもはや関係ない。

 解釈の強制的同期ではなく解釈の意図的かつ能動的な共振が大事。

 軍勢の第1段階。民族は集団の交雑によって成立している。その集合基点が共振であるか、強制であるかによって今後の家長制度の価値が問われる。

 私は子供たちに共振による集合を選んで欲しいと願い伝えたい。

 

https://youtu.be/IohgTJsyd4A

損害について

 人の損害には二種類ある。

 ひとつは物質的な物、あるいは人との関係性のなかでの証明を失うこと。財布を無くす、お金を盗まれる、あるいは家や土地を没収されること。

 そして婚姻証明や身分証明を失うこと。離婚で嫁や夫を失う、死別によって子や親を失う。

 これらは物質的損失であって、全て目に見えるもの、可視損害である。

 もうひとつは、目に見えない損失。非物質的損失、つまり、不可視損害である。

 それは魚と米の取引において、魚の価値を米に換算する際に生じる疑いのようなもので、「少なくないか…?」のような証明不可の損失の事である。

 価値の取り決めの中にはこの不可視損害は必ず生じるものであって、その解決策として呪術による解釈の変換ということに重きが置かれた。

 それは陰陽師のように組織化され、相撲や祭、戦争のような力の解釈を取り入れながら体系化されて古代神道といった宗教になった。

 人がそれを受け入れた事で経済が成立し、国家となった。

 国家反逆罪というのは、国家があらゆる手段で与える解釈から外れる事を言う。

 その処罰は、監視、処刑、隠匿である。監視した事実、処刑した事実を葬り去る事で、国家というものは成立している。

 ここで間違ってはいけないのは、軽薄な欲望からくる夢想的な野心によって国家解釈を否定するような集団であれば、たとえ反乱、転覆、新政府樹立が成功しても国家の有り様としては悪化する、または特に変化しないということである。

 あなたがもし国家反逆者であるならば、静かに、そして緻密に国家という巨大なシステムを理解して問題と思っている解釈の精査と、解決策の模索に撤するべきである。

 国家に害して消滅する運命にあるものを賊とよび、賊を兵として消滅させるのが戦争の国家としての本意である。

 国家に益して愛される反逆者は侠と呼ばれるべきであって、それを失うことが国家にとって害なのである。

傀儡女

 てっきり白蓮が女性における自由主義思想の始まりだと思ったけど、傀儡女(くぐつめ)という存在が室町時代からあった。

 人形浄瑠璃の始祖的なものであることは疑い無いが、それほど文化的価値を持った芸術であったとは到底思えない。

 今で言うと路上ライブみたいなものか。

 お金を落として貰うために、入水のような情に訴えるテーマを用いたと考えられる。

 お金を「与える喜び」みたいな概念はなるほど仏教国ならではの自己満足なんだけど、家長制度がより強固だったこの時代では、嫁入りを拒絶して家を出ることはそのまま物乞いになることを意味した。

 犬王でやっと取り上げられたけど、近江申楽なども原型は物乞いのパフォーマンスではなかったか。

 木下藤吉郎も申楽師だったのではなかろうか。

 そんな中、傀儡女の存在は家を出た娘が行着く駆け込み寺であり、その勢力たるや現在の女性至上主義勢力をしのぐのではなかったろうか。

 家長制度が絶対という解釈の呪縛は、恐らく昔も今も幻想に過ぎない。

 中央集権の裏側で、死ぬものは死に生きるものは生きた。それはどうしても看過できないことではないか。

物言い

 白んでゆく空を見上げ欠伸をしながら、城の見廻りをしていた。

 門の前に、異物があった。

 それは、死体であった。

 はらわたが裂かれ、門に向かって引き出されていた。

 エボシサマにすぐさま報告し、二人でその死体を近くの山へ運び、埋めた。

 「百舌の早贄、という言葉がある。」

エボシサマは教えてくれた。

 百舌は、気づかぬ間にカッコウに巣を占拠されると、子を殺されたことにも関わらずカッコウ子に餌を与える。カッコウの子は百舌の数倍大きくなり、気づいた百舌はその怨念をどうすることもできずトカゲなどを殺して木の枝に突き刺すのだという。

「わしは百舌というのは、その事に気づかぬというのではないと思う。早々に気づいておる。」

エボシサマはその概念に関する解釈を述べた。

「子を育てるのは脅されて仕方なくや。恐怖という本能に逆らえぬ。カッコウは百舌をいつでも殺せるからな。」

「この骸が贄であると…?」

私は聞いた。

「勝てぬ、と思う敵にはどう対処する?」

エボシサマに質問を返された。

「逃げるのみかと…。」

「わしらやカッコウは、人を逃がさぬ。逃げられぬ場合どうする?」

エボシサマが言う「わしら」とは、人という生き物全般を指しているように思った。支配者は、負けた者を逃がさぬからこそ支配者たりえる。その仕組みは、記録を見る限り数千年変わりない。

「戦って死ぬか、従うのみ…」

私ははっとした。

「贄とは、報復ですね。」

「報復か、あるいは物言いか…。」

 私はエボシサマの「物言い」という言葉に深く考えさせられた。

 主に勝敗にあたって決められたことに対し異議を唱えるのが物言いだが、ここに斬り結ぶと同等か、あるいはそれ以上の熱量を持った戦争がある。

 殺す、盗む、犯す、叫ぶ…。そこに強固に決せられた善悪というものがあるからこそ、あえて悪を表出させることに意義が生じてくる。

「贄に心が揺らげば、わしらの負けや。動じなければ、わしらの勝ちでええやろ?」

エボシサマは敵の実態などは気にも止めず、そう結んだ。

 門の回りの血を水で流し、古布で擦ったが落ちきらず、赤黒いあとが薄く残った。清めの儀式を終えると、穏やかな朝が一面に広がっていた。爽やかな気持ちの中、引き出しを開けて記録を残した。引き出しには一緒にロザリオと数珠が隣り合って収まっている。数珠を取り出すと、私は言行を唱えた。爽やかな気持ちはすぐに濁った。

 私は正直、その贄の有り様に心が揺らいだ。切腹とは、集団による贄の創造であったのか…。名誉の自決という表面的な解釈を率直に受け入れてきた私にとっては、それは人生の指針をも大きく揺るがす事件であった。

切腹について

 どうも小さい頃から、切腹という概念が腑に落ちなかったのを覚えている。

 武士道という概念の中にあって潔さ、潔白を訴える手段だという。

 首を獲られるか、切腹が「許される」かみたいな考え方は、徳川政権が作り出した統治上の精神論であって、それが現代において美徳となる訳がない。

 幼い私は大いに混乱した。

 

 切腹を最初にやったのは平家の武将で、自分のはらわたを敵将に投げつけたという。

 戦において重要なのは数の問題で、基本原理人数で勝敗は決まる。つまり味方が味方であること。それが大事。

 戦国時代、戦から逃げ出す者は数多くいた。かれらは上手く逃げられれば浮浪民になるか、別の軍勢に捕まっては売られて結局兵士になった。

 逃げない兵士をどうやって作るか。

 自分の武将が切腹する光景程、心に響くストーリーはない。もはや呪いといっていい。忠誠が深く刻まれる。

 「許さぬ」と言って、残された軍勢は戦い続ける。

 恐らくこれが、切腹を美徳とする精神論の本質だ。

 

 秀吉に破れた柴田勝家も、焼かれる城の中ではらわたを投げつけた。

 江戸時代になると、切腹は形式化された儀式となった。白装束を着て、短刀に手を伸ばしたところを介錯された。

 「腹切ってないじゃん…」最近これを知った私は、大いに錯乱した。

 あとになってよく考えたところ、やはり徳川は公家であって武士ではないという所に思い至った。

 粗野な切腹の精神論が戦乱を招くと言って、解釈をねじ曲げた。結果、多くの武人は戦い中毒を止められた。

 

 でもね、血が騒ぐのは止められない。

 …例えば敵の妻を殺して、精神の弱りきった所をぶち殺すみたいな事を、支配者の世界はずっとやってるんですよ。

 そこからみると、自分のはらわたを敵に投げつけることのなんと爽快なことよ、と思うのです。

 そう思って、改めて切腹の意味と精神を理解できた気がしたのでした。

https://youtu.be/bGcHGLAc6jw

自然秩序と社会摂理

 世界とは何か考える。

 地球は惑星であることを忘れてはならない。太陽の方が体積も重力も大きい。太陽は恒星。

 でなんで太陽が恒星になったかっていうと、体積が大きいからじゃなくて、重力が大きいから他を回してるってことが大事。

 力の大きさが物事を左右する。これは宇宙の摂理

 

 次に、月。

 月より地球が重いから、地球が月を回してる。でも月にも引力があるから、近づいた地球の表面は引っ張られる。これが潮。

 大事なのは力の大きさに関係なく互いに影響するということ。力の大きなものも、力の小さいものに影響を受けている。

 この事実を見失うと大きく世界認識を誤ることになる。

 

 太陽が光と影、昼と夜を作って、月は夜を照らす。

 そして月のない夜が来る。これを新月といって、この日は夜に光がない。

 今では街頭や車、ビルの窓に明かりがある。

 昔は一切の光が存在しなかったという。

 人々は完全な暗闇の中で、妖怪やら幽霊やらを想像して怖がった。

 恐怖とは一体何か?

 恐怖とは本来、生物が身を守る為の本能的な危険信号。

 警戒をして、死ぬ可能性が高い時に発生して、リスクを回避する為のもの。

 妖怪の多くも「新月の夜に山に入ってはいけないよ」とか、そういうリスク回避意図がある話なんですね。

 

 そしてここ最近話題のコロナウイルス、これも現実的なリスクと、妖怪的なリスク管理意図のある寓話の両面性がある問題である。

 過度に恐れてはいけないよとはいうが、実際コロナは全人類の敵だ❗やっつけろ❗みたいな悪役の立場で認識されてる。

 

 今日私が言いたいのはそのこと。

 全人類もコロナウイルスも、地球上の自然秩序の中に並列して存在しているということ。

 そして、争いの構図を作り出して団結しようとするのが、社会というものの基本原理で、私はそれを社会摂理と呼んでいる。

 

 どうか社会摂理の道理を客観的に見てもうワンステップ上のより良い社会を作ろうって人が増えないかな、と願ってこういう当たり前のことを言うだけのブログを書いています。

 

今回も思索にお付き合い頂きありがとうございました。

最後に宣伝です。

 

大人のバニラ

https://www.behemosrecords.com/