哲学的に可愛いを考えると
養老孟司さんが「親ガチャ」という概念に対して「子供の事を考えて産む親はいない」というようなことをおっしゃっていました。
確かにそうだなと思って考えてくと、子供の可愛さというのは無意識の要求の形であって、それは造形と共に一種の遺伝的命令のようなものだと考えられる。
虐待というものは子の要求に対する親の反逆であって、あくまで親を支配しているのは子であるという力関係が否定されることはないと思う。
これは単一個体同士による主従関係というより、血の支配といったほうがしっくりくる。
そう考えると子が親を支配しているとの実感から「親ガチャ」という概念が生じるのは至極自然な流れに解釈できる。
親が誰であれ私を生かすように命令し実行させる。故により裕福な親を支配できれば、より良い人生を歩める。その権利、力を私は有する。
といった「感覚」であろう。
自然な流れとしては、何らかのきっかけで自分が自分の存在、その人生をガチャポン程度に考えていたことにきづく時が来る。
親を支配できても社会を支配できない己の非力に気付き、努力してより良い人生を掴もうとするか、諦めて不貞腐れるかに分かれる。
どんな激情を孕んでもそれは川の流れのように清らかで、海のように深い「血の要求」である。