はんだえもん’s blog

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シノガラ

 神隠し、人攫いというようなことは、崖から落ちたり獣に食べられたり、あらゆることが考えられる。

 亡くなってしまった遺体が川に流されたり、海に落ちて流されたり。

 身内からすれば、突然人が消えてなくなる、という現象を冷静に可能性として仮説を組み立てていくことが出来ずに、神の世界へ連れ去られた、鬼に拐われた、天狗に喰われたなどと混乱した結論へ導かれたことがわかる。

 山の民は何らか怪我をしたような者を介抱する習慣があったという。善意で助け、また助けられた者はその野性的な生活に染まるか、あるいは村へ戻っていっただろう。

 山の民はサンカと呼ばれ、山を転々としたのは鬼と呼ばれ攻撃されるのを逃れる為だったのだろう。彼らは古代出雲族の末裔らしい。

 ニギハヤヒ=大物主は大国主の息子であり、八咫烏と共に京都に社を持ちシノガラという秘密結社を組織した。恐らく諜報機関八咫烏との対立から五摂家の手足であったことがわかる。

 恐らく機密というものは、山の神社仏閣に納められた。八咫烏やシノガラは全国の神社仏閣を巡り情報を共有することで諜報活動、機密保持を続けたと思われる。

 最終的に情報は報酬と引き換えに高僧=摂家へと集められる。彼らが行政機関に対して持つ影響力は如何程だったか。

 日本は民族に関係なく天皇の名の元に一枚岩となる。故に、不可侵の大国である。他国が日本を攻める時は、必ずその裏に摂家の手引きがある。

 そして他国は、その摂家に対して利益をもたらすとは限らない。歴史はあらゆる選択肢を選んできた。足りないのは、その状況の精査である。

噛んで吹く

 藤原北家の祖は藤原不比等、その父は中臣鎌足。もっと辿ると、天児屋命=アメノコヤネノミコト。

 アメノというのは姓なのか役職なのかわからない。ただアメノホヒという神が気になった。

 アメノホヒの子が天夷鳥命=アメノヒナトリノミコト。ヒナ=夷=日奈というので、境目を飛ぶ鳥ということらしい。これは確実に役職だ。国境を広げるべく、その周辺国を調査する諜報。その元締めという意味ではないか。

 倭の国の住人は戸籍と役割を与えられ、それをミコトとして全うすることで神の末裔であることを許された。

 児屋はアメノフトダマノミコト=忌部氏と共に天照に鏡を差し向けた一人。その後忌部氏が中臣氏に排斥されたことから、鏡を奉納したのは忌部氏で、中臣氏はその功績を奪ったと思われ、故に鏡氏は忌部氏の末裔であろうと思われる。

 鎌足が藤原を名乗り、その息子不比等大宝律令を制定した後に古事記日本書紀を編纂した。

 出雲に支配された後に復権した功績を強調し、天皇を中心とする身分制度を定めたのは不比等であると言える。

 藤原氏の強権たる所以はそこに尽きるだろう。岩戸から引きずり出したということは、その血筋を証明するものは無いし、確かなことは天照男系の末裔「とされる」誰かを立てて奉じたということだろう。これは以後ずっとこういう仕組みだということがわかる。

 つまり天皇が誰であるかより、誰が奉じるかによって政権の本質が変わるということ。結婚による血脈の連合が倭国の本質であり、その中でどの血脈が偉いかを決める。

 天皇を立てて奉ずればそこが倭の中心であるということ。

 戦国時代の本質がわかってきた。今も変わらず、誰が誰を立てて奉じるかで政局が動いているのだろう。

恐怖に関する考え方

 古流武術に関する記述の中で最も古いとされるのは念流であって、これは念阿弥慈恩鞍馬山で出会った異界のものからの伝授とされている。

 1350年、天狗伝説の始まりでもあるのだが、これは元寇の生き残りであるか、またはテングリ=天理教の隠密であったと思われる。

 テングリ=天操りというのはシュメール文明を起源とするあらゆる侵略から逃れて集結や分裂を繰り返す遊牧民の原始的宗教の一つである。

 おそらく匈奴を始めとする元の遊牧民族馬術の体系化に成功、火薬や鉄の加工等武器製造、その武器を扱う兵法の体系化において突出していたのではないか。

 モンゴル人が文字を残さない文化だとされていたのも、一子相伝であらゆる技術が頭脳の中に残されていたからか。

 念流の話に戻ると、鞍馬山というのは鑑真の弟が開山した仏教寺院を中心とする戒律を重んじる地域であり、彼らは中国の学者の家系なので、単純に国益となるか悪用される危険性のある文化や技術を日本へ伝える為に京都周辺の寺院や山の中で伝授を行っていた可能性がある。念流という武術もその一つであろうことがわかる。

 仏教はその他の宗教と同じく死など不確定な物事に一元的な答えを用意して考え方の共有を図るものであり、故に葬儀を最重要儀式として死を定義する。

 一元的な死の定義を前提としたものが念力である、と仮定する。

 すると、最終的に死に結び付くあらゆる生体反応を操る、というのが念力の正体となる。

 この場合、腹の底から死を恐れない精神の持ち主には、念力は通用しない。

 おそらくこれが、影流を始めとする流派の本質的心構えであり、それは武士道に転じて「死ぬことと見つけたり」となり、同時に騎士団の武士道的新約聖書の解釈「どれだけの富を得ようと、その肉体が死してしまえば何が残ろうか、神の為に命を捨てよ」に行き着く。

 肉体や精神が損壊されることが、やはり死に行き着くとしたら、死という概念を捨て去って戦いそのものに終始することが結果として生存可能性を圧倒的に保証することになる。

 肉体や精神の損壊の、前段階が「ちょっとした恐怖」である。それを引き出して操るのが念力。そこから逃れるために死という概念を捨てることができるか。

 これを仮定して実践した時に、人は宗教の壁を超えうると思う。

 利益  目的としての利。

 取引の大部分は価値の移動であり、その交換性によって生じる利益というのはプラマイゼロになるのが基本である。

 公共の利益となるには、事業主体の損害可能枠の中で破綻せず客体に対して利益を与え続ける仕組みの構築が不可欠。

 

 事業主体の損害可能枠のなかで破綻せず客体に対して利益を与え続ける仕組みの構築

 

 社員や従業員の数を増やせば可能損害枠も大きくなる。

 その実情とは実質的損害の配分に関する議論であって、それは個々の利害認識、目的による。

 故にやりがいであるとか、事業主体からの内的評価、客体からの外的評価が個々の利害認識にとって極めて重要である。

 これを外的評価の構築と解釈して最小単位で無理な評価誘導を行えば、視力に欠けた欺瞞的な雰囲気が蔓延してしまう。

 これでは価値基準がぼやけて、組織は歪み、いずれ崩壊する。

 事業主体の確固たる価値認識に基づいて評価誘導を行わなければならない。

 評価誘導の為の視力、それを維持するエナジー。これを失ってはならない。

 

 評価誘導の為の視力、それを維持するエナジーを失わない為に

 

 日実利理の実行の中で、これを維持していく。怠ける、と休むの区別。頑張る、と実行するの区別。

 頑張ること、怠けることは表裏一体で共に無益である。六道輪廻とはこのことで、事業関係者としての基本であり、これは本能に基づいている。

 六道輪廻から脱却するには、目的を埒の中心に据えて実行と休憩を繰り返すことにある。

 実行の内実を精査することが反省であり、反省なき実行は視力を失わせる。

 視力を失った実行のことを頑張りという。

 何もしないのが休憩である。娯楽を必要としないのが事業主体としての理想である。

 埒の中心に据えた目的のなかに実行を段階的に割り振り、精査しながら休憩を挟んで進めていく。公共の利益の先に利があり、その為の利害認識をすべき。

 目的に迷いを持つ必要がない。なぜなら解決すべき問題の全ては実行手段の精度の中にあるからである。  迷いなき目的、実行だけが座標となり指導主体となり得る。その座標さえ構築維持できれば、自ずと公共の利益は成る。

アメリカとは

 律令制はピラミッド式に身分を決めて責任と扶養のバランスを取るもので、計画的輿入れで相互の血の支配を行う統治方法だ。

 民は王の支配下にあり、同時に王も民の支配下にある。ここから逃れようとしたのが中世の歴史だと考えられる。

 民はいかに王の支配から逃れるかを考え、王はいかに民から逃れるかを考えた。

 反乱を期に嫡流は他国の王と同盟し庶子が子を産む。王位を失っても他国の貴族となって処刑を免れる事ができた。

 これを集めたのがドイツとフランス。

 ドイツに集まった者はプロイセン王を立てて国家樹立、その爵位を与えさせた。

 フランスに集まった者はユグノーとなって国王を傀儡とした。

 記録を着ける習慣のない一般人は情報封鎖の中で敵を見失い、また王も見失った。

 貴族を捕まえて生き延びた一部の人を除いて、大勢が軍としてアメリカで覇を争った。

 アメリカの貴族を倒して独立したのがアメリカであって、アメリカは脱律令制、軍隊、民主主義の化身であり、にもかかわらず欧州貴族の干渉を受け続け実質的な身分制を作ってしまった。

 自由の中に責任を見出だしたのが王であって、責任を負うことが許されなければ不自由の生存か死の自由のみが突きつけられる。

 国というものは思っている程頑丈ではなく、思っている程脆くもない。そのようなバラバラで一塊の集団が国という組織そのものなのである。

 キリストのイメージっていうのを贄として考えると、じゃあその目的を縄張りの主張だとすれば、キリスト教圏を作り出しているのはユダヤ人「その選民」だということになる。

 贄が神の世界の住人になるという考え方は宗教の共通的な所だけど「ジャンヌダルク大国主イオマンテ等」、キリスト教がその一線を画す独自性を持っているとしたら、贄そのもののイメージ「死体」をすなわち神のイメージとしているところ。

 生前のキリストは預言者「神託を授かる役割」であって神ではない。それはギリシャの神託所とか日本の巫女の役割とそう変わらない。

 死んで神となったなら、神の世界の住人というイメージになるはず。

 敢えて死体の状態に後光をつけるといった偶像崇拝は、これはもう贄でしかない。

 百舌鳥がはやにえを行うのは秋で、これは食物が少なくなる冬に縄張りを守る目的で百舌鳥が百舌鳥に対して行う行為。

 キリスト教偶像崇拝を禁止したのはそれが贄「キリストの死体」に対抗する贄となり得るから。

 つまり九州で偶像崇拝「仏教」を破壊された時、それに対抗するには神父達を処刑して晒すこと「贄」が極めて有効な手段であったと考えられる。

 現代では贄を晒す事が禁止されている。というか忌み嫌われている。その中で、「謝罪会見」が処刑の場となり人々が恐怖を感じ一方的に縄張りを主張されている。

 これが民主主義の「生き贄」であり、その中にしか安心がない。贄と贄の闘い。それが見たい。

 またコロシアムに戻る。古代相撲も、本質はコロシアムと同じではないか。

 テロップでこの贄は誰々の勢力に於けるこのような立場のものである。というのを出して欲しい。

 民主主義における至高芸術は謝罪会見であり、提供は「贄を作ろうの会」でした。

薔薇十字団

 薔薇十字団って名前が超少女漫画っぽくてうけるんだけど、恐らくこの辺から噂をコントロールして世論というものを生成する民主主義というものが本格的に始まったと考えられる。

 キリスト教社会に於いて情報の中心地は教会だった。教会に影響を与えられる王族貴族だけが世論生成できる状態だったのが、例えば貿易商人が演劇に投資することで新たな価値観を提示するといった素人の民衆への影響力というものができてきた。

 日本では音阿弥の影響力を民衆は崇めた。その影で、近江申楽といった土着民芸が廃れた。

 傀儡女が公家を捕まえて子供が生まれれば、脅して公家の側室になれたのかも。

 日本がその頃ヨーロッパで伝説化したのは、ロマンだなんだというだけではない気がする。当時は世界征服という幻想が犬ころみたいに身近だった時代。

 無限資源国日本をさっくり奪って金儲け。あとは回りの国たちをぶっ殺してやる。

 そんな感じの「感覚」が普通だった。

 ユダヤ人と非人というのは境遇が似ているだけ。

 人に非ずと蔑まれて、ただ生きることに必死だった。

 賤民貴族千差万別。あるのは生存本能だけ。昔も今もそれは変わらない。