はんだえもん’s blog

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自然秩序

時代の流れ、うねり等と言いますが、
果たしてこれは導くものと導かれるもの
カリスマと大衆という構図で捉えられがちです。

カリスマとは何でしょうか?
多くの人が導くものでありたいと願い、焦がれ、絶望しているように思います。

器がない、勇気がない、楽をしたい。
画面の中のヒーローに感情移入して一喜一憂。
問題はそのあと現実に引き戻されたとき空しさを感じること。

何故にむなしい?
気休めに満足して仕事を頑張る。お金をもらう。
こんな幸せなことはないはずなのに。

私の場合、どうしても自分の行動、表現に責任が持てなかった。ひとのせいにしていた。
だから刹那的に快楽を感じても、どこか致命的に空しかった。

人のせいにしたとき、失う最も大切なものは
主観的時間軸、すなわち心です。

我々はそれぞれの時間軸を持って生きています。
人生に関する選択の責任を人に預けた時、
その人は責任者の時間軸で生きることになります。
これは心を失うことに等しい。

人は経済面でしか人の人生を負えません。
自分の人生には自分で責任を負うべきです。

私も自殺を考えたことがありますが、
絶望したポイントはそこにあったと思っています。

人生に関する責任を奪われて、捨てられる。
ここに尊厳の本質を思う訳です。

己の時間軸で人の時間軸を見つめる。
計軸は時計が示すじかんです。
客観的時間軸と計軸を主観的時間軸でみる。
これが責任を追うということです。

何を見ようとするかではなく、
何が見えているか。

見るともなく、秩序が見えてくる。
流れとして起こりうることは、その秩序に基づいていて、それを私は自然と呼びます。

国家法秩序とは別次元で、我々は時代を生き残ろうとしている。心を失った時点で、自然秩序を見失う。だから自殺しようなんて思うんだ。

海にごみをすてるのも、コロナでマスクをしないのも、別に悪ではない。でも、いずれこの自然秩序のなかで地位を失うのは目に見える。

陽の当たらない生活を選択した、ゴキブリのような生命体が我々の未来の姿なのか。
責任を持って選択をしようじゃない。
それが我々の人生、我々の時代、我々の未来。

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