ストレスの管理に関する思索2
前回の記事でストレスと欲求の関係について主に思索しました。
この関係性を方程式風に表すと
(ストレス値)=(現実認識値)✖️(欲求値)
つまりストレスは現実を現実と認識することに始まって、それに欲求を掛けた値となります。
現実を現実として認識することにストレスを感じれば、それに呼応して欲求値が大きくなるに伴ってストレス値が膨れ上がっていきます。
現実認識値を0にしてみましょう。つまり現実を現実として認識することになんらストレスがなければ、どれだけ欲求値が高くてもストレスは0になります。
現実認識値をマイナスにしてみましょう。現実が現実であることに喜びを感じたとき、欲求値に伴ってストレスがマイナスになります。これが本当の意味の「回復」でしょう。
欲求値が0のとき、現実認識がどう歪んでいようがストレス値は0になりますが、人間である限り欲求を0にすることは不可能でしょう。欲求は常にプラスです。
ストレス管理の最も重要な点は「現実認識値」にあるとお分かり頂けたでしょうか。
次に、我々の現実認識値はどのように歪んでいるのかを思索します。
前回の記事で「社会欲」について考えました。
その中に「集団組織化に関する本能的な欲求」を挙げました。
これは魚が群れること、蜂が女王蜂を作ることと同じ原理で、遺伝子レベルの本能的欲求が人間にもあるということです。
魚はおそらく危機察知に伴う少数の「シンクロ」を起点として、その動きに同調していき最終的に巨大な群れを形成します。
蜂はフェロモンの働きによって女王、生殖用雄蜂、労働者を作り巣を形成する。
人間はどうでしょう?
我々は情報によって統制された共同体です。
情報は我々を安心させ、楽しませ、不安を煽ったり、恐怖を感じさせたりもします。
蜜蜂が蜜を巣へ運ぶように、子は親に学校での出来事を「ネタ」と意識せず情報を持ち寄ります。これには本能的な快楽が伴います。親がそのネタを聞いてあげることに重要な意味があります。子にとってというより、家族としての組織形成に意味があるのです。
崩壊する家庭の問題とは、この組織形成に関する本能的な欲求を否定してしまっている事ではないかと思うのです。
子供の話を聞いてあげられない、教育を学校に任せて親らしい事をしてあげられていない、などは情報の隔離を生み出していて、「持ち寄る」本能が機能しなくなった時にストレスが溜まります。「助け合い」「協力」「人のことを考える」「人を楽しませる」全て組織形成に関する我欲の問題です。これは肯定的な意味合いで言っています。いい事だと思うのです。
それが、なぜネガティブな情報が多く生み出されるようになってしまうのでしょうか?
次回に続きます。